大学院生活もあと少しで終わる終盤に差し掛かり、今回は僕がイタリア大学院留学をしようと思った理由を振り返りたいと思います。
イタリアで日本人とお会いしたり、日本でイタリアに留学しているということを話すと絶対に聞かれる質問が「なんでイタリアに留学しようと思ったのですか?」ということです
いつもは「イタリア料理が好きだから」と半分本気、半分冗談で言っていますが、色々な経緯があります。
ラインアップ
イタリアに留学した理由
- 浪人時代の夏休み
- 大学受験の失敗
- 卒業論文・制作のテーマ・人との出会い
浪人時代の夏休み
初めて留学したいと思い始めたのは浪人時代です。
高校時代は塾に行かず学校の自習室でずっと勉強していましたので、野球部の同期などの受験仲間と勉強について話したり、雑談したりしていました。
しかし、男子校なのに理系が少なく浪人友達が少なかったこともあり、浪人時代は予備校で基本的に1人でいました。
通常授業の時は高校のように授業あるのでよかったのですが、ついに夏休みに限界が来てしまいました。
講習を取っていても午後からなど、朝起きる必要もなく完全に自由でした。
今まで授業や部活動で管理されている生活になれていたので、自由になってしまうと自分で
夏休みでより一人で行動する事が多くなり、やる気もなくなってしまい、なんで生きているのだろうかと疑問を持つようになりました。
それも浪人生という
「中高生でも大学生でない働いているわけでもない」
「社会のどこにも所属していない」
「誰の為にもなっていない」
という自分の状況に嫌になってしまいました。
そんな時に思ったのが、自分がいなくても社会は成り立つんだから「人と違うことをしよう!」ということでした。
今までは、波風立てないように人と同じように周りに合わせて生きてきた自分とは全く異なる考え方です。
それで考えたことが日本を出て海外に留学するということでした。
なぜイタリアかというと英語で留学するのは普通だから英語ではない言語が良いと思い、第1志望校であった東京工業大学の留学について探しているとちょうどイタリア・ミラノ工科大学の短期交換留学を見つけたのがきっかけです。
元々ピザやパスタなどイタリア料理が好きだったのでピッタリだなと思い、東京工業大学に合格しミラノ工科大学に交換留学するという目標をモチベーションにして勉強に戻ることができました。
大学受験の失敗
元々高校では私立理系志望、高校野球を引退した時には記述偏差値40以下でMARCHも現役合格できない学力であったので、東京工業大学という壁はとても高かったです。
センター試験が終わり国公立大学どこに出すか決める時実際合格するが奇跡レベルで厳しいのは分かっていましたが、東京工業大学に入りミラノ工科大学に交換留学するという目標と1年間目指した大学に挑戦したいという思いで出願しました
しかし、東京工業大学の2次試験は2日あるのですが、1日目の時点で「あー終わったな」というくらいのレベルでした。
結果は言うまでもなく不合格
国立後期も出しましたが不合格で滑り止めであった私立大学に進学することになりました。
現役時代の第一志望だったのですが最低限のラインまではいけたなという感じで、逆に学歴コンプレックスが生まれてしまいました。
大学受験で失敗したというこの学歴コンプレックスが、「東京工業大学に入りミラノ工科大学に交換留学するという目標が達成できなかったから、大学院でミラノ工科大学に正規留学して見返す」という目標へと変わりました。
今は学歴なんて関係ないと思ってますが、その時は学歴なんかにこだわっていました。
そのお陰でこの様に留学できているので学歴コンプレックスを持っていて良かったなと思います。
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卒論のテーマ・人との出会い
卒業論文・制作
ミラノ工科大学の修士課程のコースを見て、僕はあまり設計などのデザインが得意ではないので建築の歴史系のコースに行こうと思っていたので、日本建築・都市史の研究室にしました。
その時に教授がイタリア留学のための第一歩としてくれたテーマがイタリア中部アブルッツォ州にあるラクイラでした。
ラクイラは2009年4月に大きな群発地震を受け歴史的建造物が残る旧市街が壊滅してしまった街です。
現在は約4/5の街の再建・修復が終わっています。
研究と言えないほどのものですが、ラクイラという街をテーマに用途変更による建物保存や修復の現状について卒業論文を書きました。
また、卒業制作では同じくラクイラをテーマに行いました。
とても概念的な物で設計まで落とし込めていないことを今見るととても感じますが、どうにか終わらせることができました。
そんな卒論・卒業制作をきっかけに建築の中でも修復という学問に興味を持ちました。
そして、ミラノ工科大学の歴史系の修士課程を志望していましたが、ラクイラの研究を続ける・修復を集中して勉強できることを考えてローマ大学サピエンツァへと志望校を変えました。
人との出会い
語学留学
大学院留学に向けたイタリア語勉強の為に、大学2年の夏にローマに2週間、3年の夏にサレルノに1ヵ月間と2回語学留学をしました。
1回目のローマの語学留学ではイタリア語がほとんどできない状態で行ったこともあり、ホームステイ先の家族としか出会いが交流を持てませんでした。
なんだこの髪型と派手なポロシャツ
懐かしいですね、、、
一方、2回目のサレルノでの1ヵ月の語学留学では、イタリアで初めて年上の方から同世代の日本人の方や外国人と仲良くなりました。
前回のローマの語学留学では人と作った良い思い出がなくや逆に辛い思いの方が強かったので、ここで初めて他の人と一緒にイタリアを楽しめた気がします。
ラクイラのワークショップ
卒業論文の調査でラクイラに訪れた期間の日本人やイタリア人の方との出会いも大きかったと思います。
教授が予定合わなかったので一人で何を目的に調査するかもあまり考えず、とりあえず現状調査すればいいなという軽い感じで2017年9月上旬にラクイラへ行きました。
おそらく、到着して2,3日目くらいに人と話さないのに我慢できなくなり、前に日本人らしい学生がいるなぁと思っていたのですが、話かけようと思い旧市街のバーで「日本人の方ですか?」と日本語で話しかけました。
話を聞くとラクイラ大学でサマースクールをしているということで、それがきっかけで参加することになりました。
サマースクールで近くの震災を受けてまだ再建・修復が着手していない街に訪れたり、教授からレクチャーを聞いたり、またワークショップで音を使った計画をしました。
そのお陰でラクイラの街の事をより知ることができ、またそこで知り合ったイタリア人PhDの方からラクイラの地図データをもらったりと助けてもらいました。
そんなつながりを持てたラクイラの震災復興について勉強したいなと、留学の目的がより具体的になりました。
日本人やイタリア人の方と出会えたことは僕の方向性を決めるターニングポイントだと思います。
復興が着手していない街並み 丘からの風景
空港
また、帰りのローマの空港でも人との出会いがありました。
エティハド航空のアブダビでトランジットをする航空券を買っており、トランジットの時間は2時間半くらいでした。
すると、ローマの空港で僕が乗る便が3時間の遅延するというアナウンスがありました。
3時間かぁと思いながら歩いていると日本人の方達が窓口で話している所に出くわして、話しかけてみるとちょうど便を変更してもらっている段階で、一緒にやってもらいました。
そこで出会った人たちをお茶をしながら、イタリアで何をしていたのかやイタリア留学したいということを話しをすると、皆さん僕の挑戦を応援してくださりました。
その方達とはFacebookを交換し、日本に帰った後も集まったり、僕が留学が決まった後に激励会をしてくださったりしました。
またイタリアに来た後も遊びに来てくてローマを一緒に観光したりしました。
応援してくださる人の為にも頑張ろうと僕を奮い立たせてくれたと思います。
遅延を知りながらのんきに食べていたパニーニ 交換できたアリタリアの直行便
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まとめ
今回は僕がイタリア大学院留学をしようと思った理由について話しました。
ここに書ききれていない方もいらっしゃいます。
浪人生活のどん底の状態から始まり、こういった多くの人と出会い交流し、応援してもらったから僕の目標であったイタリア大学院留学に辿りつくことができたと思います。
感謝しきれないほどの思い出いっぱいです。
これから大学院を修了しお世話になった方へ連絡するのが楽しみです。
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